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更新日 2012-05-21 | 作成日 2008-03-08

エチオピア/エリトリア紛争の印象



増田 研

1998年 (引用不可)


 1998年3月から9月まで、エチオピアに滞在していました。私は文化人類学の現地調査のために以前に一度この国を訪れたことがあり、今回は二度目の訪問となりました。

 滞在中、まったく予期しなかったエリトリアとの国境紛争が発生し、直接巻き込まれることはなかったものの、あちこちで戦いに関する出来事に遭遇しました。以下に書き綴るのは、私の周囲で実際に起こったことや、人から聞いた話などから、私が感じた紛争の顛末です。もともとエチオピアの政治・経済・国際関係などについては専門ではないうえに、新聞などの情報を逐一チェックしていませんので、紛争の経過などの事実関係については詳しく述べられませんが、「紛争そのもの」ではなく、「直接には関係のない人たち」のことを通じて、血生臭い戦争がどういった手触りを持ってあらわれてくるのか、見ていただくことができたらいいと思います。

 以下の記述はあくまでもエチオピア側からのものであることを明記しておきます。



●アジスから消えたもの

 アジス・アベバ国際空港の近くにガルジという新興住宅地がある。例によって、家は立ち並んでいるけれどインフラ整備が遅れているという、アジスならどこにでもあるタイプの住宅地で、ここに住む友人を私はよく訪れていた。

 エリトリアとの衝突について最初にその気配を感じたのは5月16日だった。いつもはガルジのタクシー乗り場周辺にたむろし、少年たちに靴を磨かせたりしている兵隊の姿が、その日に限って一人も見あたらなかったのだ。ガルジには、ドラム缶を半割にしたような銀ぴかの兵舎が並んでいて、そのあたりではいつも銃をかついだ兵士の姿を見ることができたのだけれど。

 件の友人は、ラジオで国境の衝突について報道があった、でもアジスは大丈夫だ、といっていた。たしかに、アジス・アベバのまるで普段どおりの様子を見ているかぎり、遠い国境の紛争がここまで影響するとはとても思えなかった。

 それがのちの空爆にむすびつくなんて、そのときいったい誰が想像し得ただろう。



●メディア

 エチオピアには政府寄り、反政府的とりまぜて数種の新聞が存在する。私たち他国人にとってはその中の二三の英語新聞が主な情報源となるのだけど、市井の人々にとってはむしろラジオの方が身近なマスメディアなのではないかと思う。

 緊張が高まって数日後、夕暮れの乗合タクシーでは珍しくエチオピアン・ポップスでもレゲエでもなく、ラジオ放送がかかっていた。そこではメセレ首相(と思われる人物)が事態の説明をしていた。メレス首相はこのあと何度もメディアに登場して、次第にエリトリアに対する強気の態度を表明するようになるわけだけれど、このときはなんとなく事態の説明をしているだけという感じがしないでもなかった。

 番組の合間には、とくにこれといった説明抜きで、昔の歌(男性の独唱)がかかるようになった。聞けばこれは、アムハラ語でフォッカラという「戦いの勝利の歌」だという。こうやって次第次第に大政翼賛的なムードを盛り上げているんだと、そのとき漠然と感じた。



 テレビもまた戦いを鼓舞するうえで相当な役割を担っていたらしい。エチオピアでは首都アジス・アベバですらテレビを持つ人はそれほど多くないけれど、動画によって伝達される情報量はやはりラジオとは比べものにならない。

 私がテレビを見だしたのは地方での調査を終えてアジス・アベバに戻ってきた八月以降だが、戦局が膠着状態におちいったあとであるにもかかわらず、(あるいは、であるからこそ)毎日のように前線リポート番組を見ることができた。これはもっぱら銃を担いで広野をゆく兵士の行軍の模様をひたすら流すシーンと、いろいろなインタビューから構成されていて、とくに後者の方は、地位の高い人に「展望をうかがう」というののほかに、若い末端の兵士にその意気込みを突撃インタビューするといった部分もあって、それなりに面白かった。

 ほかにも大晦日スペシャル番組(エチオピア歴の大晦日は西暦の9月10日)というのがあって、ここでは前線での慰問コンサートの模様が放送されていた。場所はなだらかな、草木も生えない石ころだらけの丘陵地である。窪地のようになっている低いところに歌手たちがマイクなどの設備とともに陣取り、兵士たちはその周囲をローマのコロキアムみたいに取り囲んでいる。特設舞台などはない。

 歌手たちが登場し、バンドの演奏に合わせて歌い出すと、数人の兵士が飛び出してきて一緒に踊り出す。兵士の一人が「舞台」に登場し、マイクを握り、自分はソマリ地方の某所から馳せ参じてきた者である云々と自己紹介をして、ヒット曲のひとつをアカペラで歌い出すというシーンも挿入される。会場は手拍子でのりのりである。兵士たちは一丸となっているように見える。

 詩人(と思われる男性)が、マイクの前で自作の詩(だと思う)を熱を込めて朗読するというプログラムもあった。その内容が、祖国への愛情と、皆の美しい団結心をうたっていることは、アムハラ語の能力に乏しい私でも理解できた。同様に、「故郷からの手紙」というコーナーもあって、故郷の妻から前線の夫にあてた手紙(創作? 本物?)を女優が涙声をまじえて朗読していた。子供たちは「お父さんはどこにいるの?」と泣きながら私に問いかけています……といった内容。



 こういったテレビ番組を見ている人がどれだけいるのか、報道として以上にどれだけの「盛り上げ効果」があったのかは、私としては少々疑問である。なんといっても、こういった番組を見ている人が少なかったし、私のまわりでもテレビの話といえば、もっぱら日曜日午後の「120分」という、二時間にわたって世界の(どちらかといえば珍奇な)出来事・風物のあれこれを紹介するという番組の感想ばかりだったからだ。

 はっきり言って八月以降のひとびとの「戦争」への関心はかなり低下していたし、この話題を振り向けてもほとんど何の反応も得られないというところまでいっていた。「直接ではない」人々がこの件について熱く関心を持っていたのは5月から6月までで(6月には、そろそろエチオピアはエリトリアを叩きつぶす、そうしたらあの領土はまたエチオピアのものになる、などといった見解が庶民の間でまかり通っていた)、そのあとは戦局がなんの展開も見せないままに熱気もさめていったのである。



●「自発的」なナショナリズム

 ここで時期を空爆の前にもどして、もう少しメディアの話を続けよう。

 エリトリアが国境を侵犯したと報道されて、兵士たちが北へ移動してから、今度はその他の一般庶民による「自発的」な「対エリトリア抗議集会」が各地で開かれ、その模様が逐一ニュースで取りあげられた。どこどこの行政区の住民たちが集会を開いた、某ビールメーカーの労働者たちが団結したと、映像を交えて紹介される。大勢の人たちが会場に詰めかけ、我こそはと思うものが弁舌を振るうというシーンの繰り返し。「自発的」といちいち「」付きで書くのは、必ずしも参加者全員の意志による行いではない、という意味である。

 ある日、夕方のラジオ放送のトップニュースはこう伝えた。「○○地方の○○氏は、前線の兵士たちにと、○○万ブル相当のヤギを寄贈した」と。このとき私は南部地方にいたのでテレビを見ることはできなかったが、ラジオのニュース番組はこの手の愛国者たちのたたえるべき行動を実に細かく伝えていた。

 どうもこの国には、戦いがおきるとお国のために戦っている兵隊さんたちのための献金を行う習慣があるらしく、今回もこれに類することが方々で行われていたようである。ラジオのニュースは、こうした「自発的」な募金活動の様子と、どの地方のなんという行政区から今日はいくらの献金があった、これまでの献金の総額は○○○○ブルであると、これもまた細かい数字を読み上げる。

 私のまわりで人々が聞いていたラジオ放送は大別してふたつある。ひとつは国営ラジオ局のもの、もうひとつはドイツから短波で流されているアムハラ語放送で、当然ながら後者の方は立場としてはより「客観的な」放送となっていたようだ。それは国営放送で使われはじめた「シャビア」という耳慣れない言葉にもあらわれている。ニュースでは冒頭で「シャビア政府」という言葉が聞こえるようになったが、これがエリトリアの政府を意味するということに気がつくのにものすごく時間がかかってしまった。人の話によると、どうやらアラビア語起源で、相手を軽蔑するのに用いる言葉らしく、要するにラジオはエリトリアを「シャビア」と呼ぶことで、二国間の紛争に対する国営メディアとしての姿勢を明確に示したのだといえよう。



 先ほど、各地の反エリトリア集会について書いたが、じつは私は一度だけそれに類するものを目撃した。

 それは5月24日の日曜日で、私はアジス・アベバから350キロほど南にあるソドという町にいた。この日は早朝からデモ行進の音で目を覚ました。行政区(カバレ)ごとに住民が列(というよりは一塊)を組んで、小刻みにステップを踏みながら、気勢を上げている。メッセージを書いたプラカード、エチオピア国旗、歌、手拍子、拡声器といったデモ行進に必須のアイテムがちゃんとそろっている。子供だけの行進というのもあって、先生らしき大人の指導のもとにちゃんと国家の一員としての役割を果たしている。町から離れたカバレの住民は、トラックの荷台にあふれんばかりに詰め込まれて、こちらも反エリトリア・スローガンの雄叫びとともにさっそうと現れた。

 私はホテルのバーで朝のお茶を飲みながらこれを見ていた。バーで働いている男に、お前は参加しないのかと聞いたら、おれは仕事をしているから出ないでいいんだ、第一こんなこと(デモ行進)して何になるっているんだい、とかなりさめた答えが返ってきたけれど、このあたりがみんなの本音なんじゃないかと思う。

 ソドのこの光景を見て私はなんとも皮肉な気持ちにならざるを得なかった。ソド一帯はかつてはワライタ王国という豊かな国であったが、100年前にアムハラによって「史上最悪の血みどろの戦い」によってせん滅させられ、エチオピア帝国に屈服されてしまった。それがいまではだれもが「エチオピア人」としての愛国的なデモ行進に「自発的」に参加している。彼らが本当に愛国的であるかどうかはここではそれほど問題ではない。要するにデモ行進が開催されて、そこにひとびとが大勢参加したということが大事なのだ。



 これと関係することで思うのは、今回の戦争によってエチオピア国民の政府へのまなざしが幾分なりとも好意的なものに変わっていったのではないか、ということである。よく知られるように、現在の政権を担っているEPRDF(人々はヤデグと呼んでいる)はエリトリアときわめて近しい人たちであり、五年前のエリトリア独立もEPRDFとメレセ・ゼナウィなしでは達成されなかった。そのことは当然ながらエチオピア人たちにとっては面白いことではない。

 国境の緊張が高まった当初、エリトリアに対してはっきりした態度を示さないメレス首相に対しては、人々のあいだにもかなりの不満があったと感じられる。ヤデグはエリトリアに領土をやっちまった、そのうえ今度はもっと土地をやろうというのか、といった怒りの声も聞いた。

 そういった政府に対する不満は、やがてメレスがエリトリアに対して強い態度に出るようになって変わってきた。そして民族別自治をうたった連邦制の導入以降、ナショナリズムの解体といわれた状況のなかにあって、この戦争に対する一致団結がエチオピアの国家としての統一に(少なくとも、そう見せかける)といった意味で、役に立ったということはあると思う。



 今回、メケレの町が空爆をうけて一般民までが直接被害を受けたことをうけて、エチオピア政府は特製のポスターを、異例とも思える早さで作成した。それは 10枚ほどのカラー写真——爆撃による死者たちを写したもの——で構成され、「これはエリトリアの空爆による犠牲者である」との簡潔なキャプション(英語)がついただけのものだが、目にした瞬間の衝撃はなかなか激しい。このポスターは、一度はハラルの街角で、一度はレストラン(!)の入り口で、あるときは病院(!!)の入り口で目撃した。



●ガンベラホテルの終焉

 6 月5日のメケレの空爆とその後の応酬があってから、エリトリア人を追い出す動きが大きくなったことは、ある意味でとても悲しいことだった。戦争にかかわろうが、商売を手広くやっていようが、国籍の違い(エリトリアとエチオピアの間では、国籍の違いはとても小さい問題であるとともに、このようなコトが起これば問答無用の絶対的な差異となる)を超えてそれなりに仲良くやっていたのは認めなければならないからだ。

 私たちが住んでいた家の近くでも、何度かお世話になった写真屋のオーナーがかわって、店の名前も変わっていた。

 八月の末に、一週間ほど西部の町ガンベラに出かけたときには、私たちは直接にこの「エリトリア人追い出し」の影響を被った。私たちはガイドブックに「ガンベラホテル」と紹介されているホテルに部屋をとったのだが、二日目の朝にはがやがやとものを運び出す音で目を覚ました。倉庫から運び出した木材だのトタン板だの椅子だのを帳面に記載している。夕方になると、ホテルの前に二台の大型トラックがやってきて、これらのものを運び出した。私たちが夕食を終えてホテルに戻ると、ホテル併設のバーにあった冷蔵庫やテーブル、椅子のたぐいがあらかた積み込まれていた。ガンベラホテルには私たちと、あと一人宿泊客がいただけだから、その他の空き部屋のベッドやサイドテーブルは運び出されていった。運び出すたびに若い男がそれを帳面に記載するのだが、その際の会話を聞くと、どうやらこれらのベッドは売り払われてしまうらしい。ホテルで働く女性が、騒々しくてすみませんねえ、と挨拶に来たけれど、いったい何がおきているのか私たちにはまるでわからない。

 ホテルの主人がエリトリア人であり、このたびエリトリアに帰るにあたってホテルの用地と建物を政府に買い取ってもらい、その他のものはみな売り払うのだ、という「コトの真相」を知ったのは、従業員たちに顔を洗うための水をもらいにいったときだ(水道もと止まっていた)。なるほどね、と事態を了解するのは簡単だけど、戦争なんかのせいで追い出される気持ちを考えると、何ともやりきれないものがあった。私たちも、翌朝八時に起こされて部屋を追い出され、しかたなくほかのホテルを探す羽目になった。

 追い出されて、別のホテルに部屋を確保し、ふたたびガンベラホテルを訪れると、もう客を迎える必要のない従業員たちが閉ざされた門の前で談笑していた。事情を知らずに、いつものようにビールを飲みに来たひとに、一言「なんにもないよ」と声をかけてあげるために。