戦後長崎の「美化」
衛生害虫駆除と緑化における住民参加の事例から
甲斐田麻由
本研究では戦災復興のプロセスにおける長崎の公衆衛生の歴史を辿る。とくに、衛生害虫撲滅運動と緑化運動に焦点を当て、戦後長崎の「美化」がいつ、どのようにして達成されたのか、長崎市の広報誌を用いて人びとの意識を追い、分析していく。
第2章では、「蚊とハエのいない生活実践運動」というモデル衛生事業から当時の衛生害虫駆除の指導の仕方や衛生害虫に対する人びとの意識を調査した。衛生害虫に対する人々の意識は、ワクチンの普及や衛生環境の向上によって変化し、「恐怖のイメージ」が消える一方、「不潔なイメージ」だけが残されるようになった。
衛生運動の担い手は子どもでも熱心な住民でもよいが、こうした運動は「衛生観念の低い人間」に対して「高い衛生意識を持って情報を発信できる人物」を必要とする。そういった住民を指導できる、メッセージ発信者としての広い概念での「行政」によって住民は指導され、衛生観念を習得しながら生活環境を向上させてきた。モデル衛生運動も最終的には住民参加型の自主的な運動として位置づけられたが、運動終結後、衛生害虫に対する注意を一定レベルに保つために、年間行事としての「衛生害虫駆除」が行政によって行われる必要があった。モデル衛生運動と衛生害虫駆除は、広い意味での「行政」という指導者によって導かれながら、自治会や子供会を組織化することで成立し、近代的な衛生観念を住民の意識の中に定着させることに成功したのである。
第3章では、緑化に関する記事の分析を通して観光都市・長崎市での緑化運動の利用のされ方を明らかにした。緑化推進運動は「花いっぱい運動」と「住みよい街をつくる運動」の出現によって「良好な都市景観の形成」という役割も持ち合わせるようになる。行政は市民に対して、生活の衛生面と経済面の向上を目的として設定することで緑化運動に参加するよう促し、それによって観光地長崎の良好な景観形成が図られたのである。
衛生害虫駆除においても緑化の都市防災においても、環境が整備され緊急を要した問題が解決されてくると、やがて1つの運動にまとめられ、観光地として認知される良好な都市景観形成への運動とされていった。長崎市の「公共空間の清潔維持」は、疾病の予防と観光業の潤いによる利益享受という目的をもって市民の参加を促し達成されたのである。

ご当地検定における知識の偏り
長崎歴史文化観光検定を事例に
垣内絢
本研究の目的は、近年数多く実施されることになった「ご当地検定」における知識の固定化と偏りを、長崎検定の出題を検証することで明らかにすることである。ご当地検定が実施されるプロセスでは知識を再編・選別され、固定化されていったと考えられる。本研究では、その選定の基準を分析したが、長崎においては、「長崎学」が観光資源化されるにあたって、県民に期待するアイデンティティと県外の観光客にアピールしたい「長崎」という2つの基準から知識の再編が行われたと言える。
第1章では、ご当地検定および長崎学に関する先行研究をレビューし、批判的検討を加えた。ここで得られた枠組みを用いて、第2章では長崎検定の2010年実施分までの過去問題の詳細な分析を行った。その結果、13回分全1138問において出題される時代やキーワードが明らかに偏っていることが判明した。こうしたキーワードは長崎が歩んできた歴史の特徴を反映し、なおかついわゆる「長崎の歴史」のヘゲモニーを反映していると言える。
第3章では、熊本・観光文化検定および京都・観光文化検定との比較を行った。2つの検定との比較を通して、知識の年代別の出題範囲はその地域の公的な「歴史」のバランスと相似である、という仮説は正しく、空間的な出題範囲は歴史的舞台あるいは観光地として扱われる場所であるという仮説は、空間的な出題範囲は歴史的舞台あるいは主に現在有名である観光地として扱われる場所であるが、検定や公式テキストブックに記載することでその地域が今後アピールしていきたい地域を観光資源化する目的も含まれる、ということが明らかとなった。
「検定」という新しいタイプの観光文化の仕掛けによって、長崎学は観光振興のための資源として活用されるようになり、その結果、長崎学の知識そのものの中に「観光」という要素が含まれた。地域(地域住民)が観光客に紹介しPRしたい文化資源と、観光客が地域に求め、触れたい文化資源とは一致していなければならず、「選ばれる知識」と「選ばれない知識」の差は、さらに開いたといえるかもしれない。この地域側と観光客側、双方のニーズの重複する部分が知識として選ばれた結果、検定における「長崎の知」にはより大きな偏りが生じてしまった。あらかじめ固定化、パターン化されていた知識は、観光振興への応用にあたり、さらに固定化、パターン化の度合いを強めることになったのである。

露店商とその社会的布置
長崎市・西浜通りの事例から
松浦理人
1990年代後半以降の、全国的な公共空間の積極的活用に関する取り組みのなかで、街路空間における賑わいの創出、歩行者の滞留行為の優位性という観点から、路上における「露店」が注目されるようになった。本研究では長崎市銅座の西浜通りに展開する露店を事例として、その社会的布置を検証することを目的としている。
約40年の歴史をもつ長崎市・西浜通りの露店はストリートに賑わいや活気を生み出してきたが、2008年2月には一度完全に通りから姿を消した。西浜通りの露店が法に反していること、歩行者の通行障害とされたことがその原因である。
本研究ではストリートの賑わいに寄与しつつも迷惑として扱われる、こうした一見不明瞭な長崎市の露店の社会的な位置を明らかにすることを目的とする。そのため、西浜通りの露店を3つの視点、すなわち行政、利用者、露店商、のそれぞれの視点から見た西浜通りの露店のあり方を記述し、その社会的布置を分析することとした。
第1章では「露店」の概要を整理し、「長崎市・西浜通りの露店」を定義した。第2章では長崎市における露店の歴史を概観したのち、長崎市への聞き取りや市議会の議事録を参照しながら、社会問題である露店に対する長崎の行政の捉え方を明らかにした。第3章では露店商と利用客の2つの視点からみた露店の姿を検証するために、参与観察の記録を分析し街路空間におけるコミュニケーション創出機能を析出した。
西浜通りの露店に関わる、行政、利用客、露店商の3つの視点はそれぞれ異なるが、特に行政と露店商との間には対立関係が見受けられた。露店がこれまで、法律違反、交通障害など街路空間で迷惑の要素になっていたことは事実である。しかし、ストリートのコミュニケーション装置として購買行為の根幹を成す露店が賑わいや活気を創出してきたことも事実だ。長崎市における露店の社会的位置づけは一概ではなく、露店に関わる主体に応じて社会の中での位置づけに変化が生まれる、不安定な客体として布置されているといえるのだ。
エビス信仰のコミュニティ
長崎市福田本町丸木の事例
谷 瑛祐
本研究の目的は、長崎市福田本町丸木地区において戦前から今にいたる生業・文化・生活環境の変遷を調査し、それらとエビス信仰とのつながりを明らかにすることによって、エビスと結びつくコミュニティの詳細およびそれを取り巻く社会環境の変化を考察していくことにある。
古くからエビスは漁民や農民、商人などに幅広く信仰されてきた。人々との生活に密接に結びつく民間信仰の中でも、エビス信仰は特に人々との結びつきが強かったと言える。本研究は民間信仰としてのエビスに焦点を当て、エビス信仰と地域コミュニティの変化の関連に着目する。
本論文の構成を説明する。まず第1章では、エビスとエビス信仰の概要を紹介し、調査方法および調査対象地の詳細を述べた。さまざまな性質を持つエビスは、多くの産業・文化と密接に関わっており、それゆえに多種多様なコミュニティとの結びつきが考えられる。第2章では調査地である福田本町丸木地区の情報を整理し、インタビュー調査を行うことで、丸木地区の産業・文化とエビスとの結びつきを考察した。その記述を通して、漁業・農業・商業・遊郭・ペーロンの5つの生業・文化がエビスと密接に関係していることがわかった。第3章では、近代化のプロセスにおける生活環境の変化が、丸木地区のコミュニティに与えた変化を調査し、それがエビス信仰のコミュニティに及ぼす影響について考察した。その結果、コミュニティが人口減少という事態に陥ったとき、エビスはコミュニティの結びつきを阻害することがわかった。これはエビスの多様性が、コミュニティ同士の専門性を助長してしまうことに起因すると見られる。第4章では、前章で述べたコミュニティの変化プロセスにおける、地域住民の対応を考察した。住民は、従来のコミュニティの形を捨て、エビスを「信仰」から「伝統」へと移行させることで、エビス信仰を存続させようとしていることがわかった。
本研究は、あくまでも一地域のエビスコミュニティに関しての考察であり、全国各地に点在するエビス神社の数だけ違ったコミュニティの形があるといえる。それら多くのコミュニティを研究することで、多様な性質をもつエビス信仰が人々に与える影響を解明することができるだろう。

明治期長崎における感染症と社会
明治26年狂犬病大流行の事例から
松山育郎
本研究の目的は感染症の流行に際しての社会的な反応のあり方を、明治26年の長崎における狂犬病大流行時の事例を検討することで明らかにすることである。
細菌やウイルスによって引きおこされる感染症に対しては、明治10年代における「コレラ一揆」や14世紀のヨーロッパで確認されたペストの流行による集団的な異常現象など、ときには暴動や一揆といった大規模な社会の反応がみられてきた。
明治期の長崎には、海路を通じた交流によってさまざまな感染症が国内外から侵入している。そのなかで明治26年(1893年)に長崎市内を中心とした明治期最大の狂犬病の流行が発生した。同年2月下旬から発生した狂犬病は県内各地に伝播し、明治26年の3月から翌年3月までの間に36名が死亡し、狂犬病対策の一環として1,897頭の犬が撲殺されている。しかし、長崎では狂犬病が流行した際には撲殺される犬を匿う住民がいたものの、コレラやペストほどの大きな暴動は確認されていない。明治期における最大の規模であり、狂犬病対策の発展に影響を与えた狂犬病の流行が、社会に多大な混乱を生じさせなかった理由はどこにあったのか。
本研究では、第一章で、長崎における狂犬病大流行の時代背景や公衆衛生の実態、過去の傾向を把握した上で、第二章および第三章において当時の長崎で発行されていた「鎮西日報」紙の記事の分析を行った。この分析に基づいて、狂犬病以前に確立した対策が施行されている天然痘・牛疫と比較することで、長崎の狂犬病大流行時における社会の反応を明らかにしている。
研究結果として、筆者は「犬」の経済的な価値や産業への貢献性が薄いことから、徹底した撲殺の実施が要望され、各地域で近代的な感染症対策の基盤が充分に確立されていないまま、長崎県庁を中心とした集権的な防疫政策が施行されていたと結論付けている。
明治26年の長崎における狂犬病の大流行は、獣疫予防法の成立やワクチンの開発、各種の取締法など、その後の公衆衛生政策の発展に影響を与えた。しかし、明治期と比べると格段に進歩し、確立された狂犬病対策が施行されている現代においても、犬の殺処分は目的、手法を変化しながら、明治期の大流行時と比較して約5倍の 規模で実施されているのであった。
雲仙市千々石町木場名岳地区における棚田の価値の再発見
山口明華
本論文では雲仙市千々石町木場名岳地区における、地元が再確認した棚田の価値のあり方と、棚田の価値再発見のプロセスを記述することを目的としている。
非合理的な農業とされてきた棚田をめぐる社会的状況が変化するのは、1995年に「文化的景観」として棚田が世界遺産認定を受けたこと、および非関税障害撤廃を推進したWTO体制の発足が背景にある。この結果、農林水産省により棚田が日本の「文化遺産」として再定義され、農村と都市の交流の場として注目を浴びるようになったのである。
第1章では調査地の概要を述べ、少子高齢化で後継者がいないことや、一部で耕作を委託している現状を詳述した。続く第2章は、岳地区における「日本の棚田百選」などの選定で、地元の営農意識が高まり、「岳棚田プロジェクト21」という棚田保全団体を生み出した経緯を論じた。この団体が数多くの活動を通じて外部の人々を棚田に呼び込み、地域の特性を生かしながら営農をしていくモデルができた。そして、外部の人が棚田に関心をもつことで住民の間での棚田再評価が始まり、それによって棚田に対する意識が高い住民が外部の人を呼び込む活動をするといったスパイラルが形成されたと推測できる。そしてそのスパイラルの中に巻き込まれるようにして、地元の住民もまた棚田の価値を再発見したのだ。
第3章では、棚田耕作地域外の人と棚田耕作地域内の人が考える棚田の価値の重なりとずれについて詳述した。一致する点は、生産機能、環境貢献、土地空間の保全、伝統文化の保全、緊張緩和、教育であった。しかし地域社会への貢献については意見が違い、棚田耕作地域内の人は、現時点で肯定はするものの、将来的には棚田を全面的に出して継続的に振興していけるかについては懐疑的であるとした。
耕作地域では棚田保全を積極的に行い、日本の文化としての棚田を背負ってきたものの、それは地域のアイデンティーの確立とはならなかった。しかし、百選の選定などを通じて、この地域に外部から人を呼び、棚田に注目を集め、そして、保全組織の設立、発展が促された。このことは、地元の人々が、外部から与えられた「棚田は文化である」という言説を取り込み、具体化しことを意味する。そして地元は、支配的な圧力とより円滑に関係を築く手法を身につけた。それが、地域の人の棚田の再評価を促し、保全活動をも促したといえるのだ。

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