長崎大学環境科学部/増田ゼミ 卒論要旨 第4期生

日清戦争直前期の長崎における日本人−中国人関係
鎮西日報の記事から

猿渡友希


 本研究では、日本が近代化の道を歩み出した明治時代に、初めて外国と戦火を交えた日清戦争に至るプロセスについて、日清戦争直前期(明治27年2月~7月)の長崎の新聞『鎮西日報』からの言説分析から、長崎における日本人-中国人関係がどのような変化を見せたのかについて考察をした。

 日清戦争に向けて「日本国民」が形成されていく状況下において、当時の長崎については、歴史的に中国人と特別な関係(両国民は「あちゃさん」と親しみをこめて呼び合っていた)があったことが自覚されながらも、①日清戦争は両国人の友好関係に亀裂を生じさせるものではなかったこと、②全国的な規模の「愛国主義的宣伝」なるものが存在し、それが長崎という「一地域」を飲み込んでしまった、という二つの異なる見解が存在していた。

 本論文の第三章および第四章では、こうした二つの見解を念頭に『鎮西日報』に掲載された記事から、「日本人-中国人関係」「長崎人-中国人関係」ならびに「日清戦争が長崎にもたらした影響」についての分析を行った。

 分析を通じて、長崎人にとって「あちゃさん」のいる長崎が日常であり、歴史的に中国人と深い関わりのある長崎を「長崎人」自らが意識していたことが分かった。それが平時の『鎮西日報』において、中国人に関する記事が少ない理由であり、新聞記事上で居留中国人のことを「あちゃさん」と呼んでいた理由であろう。しかし、「長崎人」を日清戦争は「日本人」へと変化させた。日清戦争が「長崎人」に「国民」「日本人」としての行動規範を強いたのは間違いなく、結果的に歴史的に交流を続けてきた「長崎人」と「あちゃさん」の関係に変化をもたらした。それは「長崎人」として「あちゃさん」と交流する人々を「日本」の国益を守らない「売国奴」とみなし、「日本」のために奉仕する民間団体を「日本人としてあるべき姿」と鎮西日報上に掲載していたことから分かる。しかしながら、「長崎に少なくない日本人と中国人による血縁家族の日清戦争直前の沈痛な様子」(居留支那人、1894.7.15)など長崎独自の日中関係も掲載されており、そのため「歴史的な友好関係」と「日清戦争による国家間関係の悪化」の間で、当時の長崎の「日本人-中国人関係」は揺れ動いていたのではないかと考えられる。

鮮魚店と「常連さん」
長崎市城山地区における小売市場の調査から

平部真也


 長崎市には「小売市場」という、1つの建物内に食料品を中心とした小売業者が集積し対面販売を行っている市場がある。それらは昭和期に多く設立されたが、自動車の普及やスーパーマーケットの進出などにより、次々と廃業した。多くの市場が廃業していく一方で、残り続けている小売市場も存在する。当初、本研究は小売市場がなぜ残り続けているのか、その背景を明らかにすることを目的として始められたが、残り続けている多くの小売市場は店舗数が少なく、もはや機能を失っている点で「市場」とは呼べない状態にあることがわかった。つまり小売市場ではなく、構成店舗としての小売店が、衰退する小売市場の中で残り続けているのである。

 そうした小売店に着目し調査を進めた結果、小売市場の中で肉、魚、野菜の生鮮3品の小売業が残り続けている傾向にあることがわかった。その中でもとりわけ多く残っているのが「鮮魚店」であることから、本研究では小売市場の事例を手がかりに、そこでの「鮮魚店」と長年または頻繁に市場を利用している「常連さん」に着目する。そして衰退している小売市場の中で、「鮮魚店」が残り続けるその背景を明らかにすることを目的とした。

 第3章では、小売市場の利用客を対象とした出口調査の分析を行い、「新鮮」「なじみ」「融通が利く」という3つの利用目的・理由を見出した。「新鮮」に関しては、多くの利用客が魚の新鮮さを求めて小売市場に足を運び、それが鮮魚店の存続に結びついていることがわかった。「なじみ」と「融通が利く」という点は、対面販売を行う小売市場ならではの特徴であるため、鮮魚店で行われる「魚をさばく」融通面に視点を移し、「鮮魚店」と「常連さん」の会話のやりとりに着目した。実際に鮮魚店で行われている対面販売の観察から、「魚をさばく」ことで鮮魚店が常連さんの幅広く細かい注文に応え、そこから両者の間に「融通の利く」関係が構築されることがわかった。また「魚のさばき方」についてのコミュニケーションが必然的に行われること、鮮魚店から常連さんに対してのサービスや商品の保存に関するアドバイスが行われることで、「なじみ」の関係が構築されやすいことも明らかとなった。したがって他の生鮮2品の小売業やスーパーマーケットにはない鮮魚店だけが持つ「魚をさばく」という「融通」は、小売市場の中で鮮魚店が残り続ける要素であると言える。

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混住化を生きるコミュニティ
長崎市平山町における住民組織の再編成

山口貴之


 本研究は長崎市平山町における混住化事例の検討を通して、住民組織の再編成とつながりの維持について考察することを目的としている。

 「混住化」とは、ひとつの集落内で農家と非農家が共存している状態、あるいはその過程を意味する概念であり、この現象が顕著に現れたのは高度成長期以後である。混住化プロセスは、おおまかには農家が離農・兼業化する「内からの混住化」と、非農家の流入による「外からの混住化」に分けられる。

 第1章では、「混住化」に関する分類と原因、その進行による農村の変化について先行研究を基にまとめた。また、三重県鈴鹿市の須賀町と林崎町を事例にあげ、農家数の変化や住民組織の構成、共同作業の行われ方についての概要を紹介した。

 それらを踏まえて第2章では、平山町の地理や歴史、氏子組織、行事、郷土芸能(浮流および大名行列)などの概要を紹介した。生活の近代化や産業構造の変化による農家の減少や、1983年に町に隣接する丘陵が「平山台団地」として開発され大量の非農家が居住し始めたことなどを検討し、平山町における混住化の進行過程を明らかにし、なおかつ平山町の事例を先行研究による混住化の類型に当てはめる作業を通して、より詳しく平山町の混住化状態を考察した。

 第3章ではインタビューによる資料を検討することで、平山町の旧住民のつながり維持、および住民組織の再編成について検討した。

 住民組織のメンバーシップは昭和30年代(高度経済成長期以前)までは氏子を中心として構成され、組織間の情報共有などのつながりは強かった。混住化はこうした地縁的・血縁的関係を弱めたが、集落は新たな定住者を迎えることにより、かえって旧住民間の「われわれ意識」を強化する作用を生み出した。また、新住民もまた「定住者」であり旧住民とのつながりがなければ平山町全体のコミュニティ維持は図られない。そのため、共同作業や郷土芸能などで交流が深められている。郷土芸能は「帰属意識発生装置」であり、その参加は、新住民/旧住民の区別に関係なく「平山町民」という意識を芽生えさせている。

 もし、「内からの混住化」のみが進行していたら平山町は過疎地帯となっていただろう。「外からの混住化」があったからこそ旧住民のつながりは維持され、また新たなコミュニティの再編が達成されたのだ。新住民もまた定住者であり、いずれ「じのもの」と呼ばれ、旧住民と同化し新たなつながりを生み、平山町を支える力となるのである。

経験からとらえる水子供養

松村明日香


 供養とは、死者の霊に供え物などをして、その冥福を祈ることである。一般に私達の生活の中では、先祖供養である墓参りが最も身近なものである。近年では、家族のように時を共にしたペットの供養をする人もいるなど、供養の対象は多様化している。時代や社会情勢に合わせて新しい供養が形成されているということは興味深い。

 本論文は水子供養を研究対象とした。水子とは、この世に生を受ける前に亡くなった胎児であり、胎児が水子となる理由は、流産等の病や、中絶等の堕胎である。そもそも「水子の死」という観念自体はたいへんに不思議なものである。水子はこの世に生を受けることなく亡くなった子のことであるので、「生まれる前に死ぬ」という矛盾をつねに抱えている。このことからも、水子供養が一般的な供養とは異なる性質を持っていることは想像に難くない。

 第1章でこれまでに行われてきた水子供養研究の理解の枠組みを整理し、水子供養は社会現象として、あるいは宗教として、多方面からのアプローチによって取り組まれてきた課題であることを理解した。そして第2章では、先行研究の流れを引き受ける形で、これまであまり着目されてこなかった、水子供養を行う当事者の意識に着目し、供養に携わる人々と、供養を経験した人々、双方へのインタビューを行い、この特異な供養のあり方に迫ることを目的とした。調査は長崎市内の真言宗寺院およびそこで供養をする人々を対象とした。

 インタビューの考察から、先行研究との共通点と新たな発見を得られた。共通点としては、水子供養の背景に「罪悪感」と「懺悔」の感覚があることを指摘できる。供養経験者は何度も懺悔の言葉を口にし、年月が経っても罪の感覚を忘れることはできないという。その一方で新たな知見として水子供養を行う男性の感覚が挙げられる。水子供養は女性に対し自責感を持たせるが、男性はそのような感覚に陥らないという言説が主流であったのに対し、男性もまた、女性と同様に罪悪感を抱き、懺悔をしていかなければならない必要性を感じていることがわかった。本研究における男性へのインタビューは1例しかなく、この調査がすべての男性の意見を代表しているということにはならない。だが、水子供養と女性を関連づける論が主流であるなかで、これまで男性を対象とした調査が行われてこなかったことは、指摘しておく必要がある。また、社会現象としての「水子の祟り」などがとりあげられた結果、水子供養は不幸を回避するための謝罪であるという見方が成されてきたが、供養を長期間にわたって続けることにより、それ以外の感覚、たとえば「感謝の感覚」を抱くこともあるということが明らかとなった。

 水子供養はたしかに「特異な供養」ではあるが、その経験は、ときには、一般的な新人、宗教的体験へと昇華する可能性があるのだ

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第4期生

 出入りの激しい学年でした。
 2007年12月にゼミメンバーが内定したときには、男4人、女1人という、増田ゼミとしては初めて男女比の逆転した構成でした。そこに編入生1名と留学から帰ってきた人が1人加わって7人。
 2009年4月になってみると、1人がアメリカ留学、1人が留年。秋になって1人が卒論提出を見送り……最終的に、2010年1月に卒論を出したのは4人でした。ね、出入りが頻繁でしょ? 
 元気の塊だった3期生の薫陶を受けたのか、この学年もカラオケ好きでしたが、3期生のダンスへの執念を受け継ぐことはできず(そりゃ、できないよ……)、結果的にいつも創作ダンスでしたね。
 2009年5月には、ゼミとして初のソフトボールチーム「ラロンベックス」を結成し、期待以上に勝ち進みました。
 3期生の卒論への取り組みを間近でみて育ったからか、4期生の4人も卒論への取り組みはなかなかのものでした。発表会などでも安定した評判を得て、増田ゼミの安定感を演出してくれました。
 卒業後は2人が民間企業、1人が公務員(長崎県警)、1人が大学院進学へと進路が決まり、4人中2人が長崎市内に残ります。

猿渡論文

 卒論のテーマを模索していた当初、私のところに持ち込まれたのは「政治家の名前が並ぶ近代日本史」の壮大な研究テーマでした。それじゃ分厚い学習レポートは書けても論文は書けないよ、といってもっと具体的な調査のできるテーマに絞り込むように指導したら、次に持ってきたのは「長崎と日清戦争」でした。
 私は「サル」と呼んでいましたが、ゼミ生たちは「さるちゃん」と呼んでいました。本来は3期生なのですが、3年生になる前に休学して、一年間イギリスと大陸ヨーロッパで遊学していました。帰国してきたら、「政治学を勉強したい」と言ってきてビックリしました。
 卒論についてはその後、あれこれと紆余曲折があり(明治時代に長崎で華人と長崎人の対抗ソフトボール大会がなかったか探してみろ、などと無茶な指示をした覚えがあります)、最終的に明治時代の新聞「鎮西日報」の記事をデータソースにして、日清戦争の記事に長崎の中国人と、長崎の人々がどのような関係を切り結んでいたのかというミクロな社会史にたどり着きました。
 テーマ設定はこれで万全なのですが(なにせ、誰も研究していない)、すごかったのはそれからです。日本でただ一ヶ所、「鎮西日報」のマクロフィルムを所蔵している長崎歴史文化博物館の資料室に通い、関連する紙面を徹底的にプリントアウトし、テーマ別に抽出、一覧に作成……と、たいへんな馬力で資料整理を進めていきました。圧巻だったのは、まだ言文一致も落ち着かない明治時代の文章を、片っ端から現代語訳してその内容と社会的背景をきちんと対照させた作業です。
 できあがった論文は、間違いなく日本ではまだ誰もやったことのない近代日本の社会史になりました。文献リファランスを徹底すれば、そのまま修士論文として出してもおかしくないものです。
 論文は文化環境研究会の優秀卒論に選ばれ、本人は発表会の2日後に九州大学の大学院への進学を決めました。専攻はもちろん政治学です。

平部論文

 「古いお店はどんどん消えていくのに、豆腐屋ってけっこう残ってるよなぁ」とゼミで私が発言し、それに刺激されたのか、自宅近くの寂れた市場(のちに、それは「小売市場」と名前を与えられる)をフィールドワークすることに決めた平部くん(通称・ヒラベックス)の卒論は、増田ゼミの王道を行くような「通い詰めて、話を聞く」データ収集に明け暮れた成果です。
 宮崎弁のぼくとつとした語り口と、「知らない人に話しかけることを苦にしない」というポジティブな性格、そして着実に考え抜くことをやりぬく努力、これらがすべて相まってユニークな長崎昭和史を描くことに成功しました。
 「フィールドから出発し指向を発展させる」という人類学的な方法をとったせいで、論文そのもののテーマはつねに揺らいでいました。小売市場の歴史的変遷というテーマは、最後には「なぜ魚屋は生き残るのか」というミクロなポイントにたどり着きました。そのピンポイントな問いが「なぜ日本は今こういう社会になってしまったのか」というマクロな問いに結びついていることは、たぶん本人も理解していたでしょう。
 私がやった最後の指導はこうです。お前の論文は、調べれば誰もがおなじ結論に達するような内容になっている。それはそれで普遍性が担保されるから良い。だけど、もっと「平部が調査した」という味付けがあってもいいだろう。その無理難題に応えるために、平部くんは一晩かけてホワイトボードにマインドマップを描き出し、彼ならではの結論を導いてくれました。ディシプリンに左右されない、「オレだけの研究」がここに出現したわけです。
 長大野球部主将にして、ゼミのお兄ちゃん&リーダー的存在として、つねにゼミ飲み会を企画し、統率力を発揮してくれたヒラベックスは、卒業後は大手食品メーカーに就職しました。

山口論文

 4期生が増田ゼミに入ってきたとき、うちのゼミには山口姓が2人いました。私は山口貴之君を「たかさん」とか「たかゆき」とか呼んでいましたが、ゼミ生たちは「たかぴょん」と呼んでいました。
 3年生のときに暖めていたテーマは「浜の町の落書き」でした。じっさい落書き研究の先行文献をあたり、実際に予備的な調査もしていて、「これはたしかに環境問題的な良いテーマだ」と私も思っていたのですが、4年生になったとたん全く違う研究テーマを持ってきました。それが「長崎市の平山町の郷土誌を書く」というものです。
 刺激になったのは、3期生の堀温子さんの浦上水源地エスノグラフィーでした。「あっこさんの研究を見て、自分も地元でああいうのをやりたいなあ、あっこさんを超えたいなあ」と言っていたのをはっきり覚えています。指導教員として本当にうれしかったのを覚えています。先輩の研究をみて、それを「超えたい」などと言うなんて。
 山口君自身が平山町に隣接するニュータウンの住人なのですが、元農村だった平山町の人たちと深い交流があり、「隣り合うけれど異なる2つのコミュニティ」が気になっていたようです。これで、日本のどこでも前景化される問題系「旧住民と新住民」という問題の構図が決まりました。
 先行研究の枠組みから「混住化」という概念を見つけ出し、それを詳細に検討したうえで、「かつての農村、いまは宅地」というコミュニティが、どのようにして外来者を受け入れ、なおかつ土着のアイデンティティと構築・維持しているのかという点を突きつめた上質のエスノグラフィーが完成しました。
 論文には盛り込めませんでしたが、明治時代の自治会の記録を入手し、それを判読したことも良い思い出です。
 長崎ネイティブにして剣道の達人は、卒業後は長崎県警に就職します。

松村論文

 不思議な縁です。松村明日香さん(あっすん)は、2年前には長崎外国語短期大学の教室の、最前列で私の「比較文化論」の授業を受けていました。それが気がついたら長大に編入し、私のゼミ生になっていたのです。
 五島出身で、長崎屈指の進学校である長崎西高校に進学したために、16歳から一人暮らしをしていました。そのおかげで家事をテキパキとこなし、ゼミのためにいろんな料理をしてくれました。へんな言い方だけど、ゼミのお母さん的存在です。
 卒論のテーマは、3期生中村さんの発言がきっかけでした。原爆関連の慰霊碑を調査していた中村さんが、ある日「慰霊碑を調べていたら水子供養碑」を見た、というのです。これがきっかけで水子供養を調べるというのが松村さんの課題になりました。
 名前も持たず、生まれ出でもせず、それでも供養されるという不思議な存在、水子。
 調査のプロセスが、指導教員としてもなかなか興味深いものでした。まずは「そもそも水子供養ってなんだ」という問題がありました。探してみたら、あるわあるわ、おびただしい数の先行研究。これをきちんと整理するだけで論文になるんじゃないの、ってなくらい。
 もちろん本人はそれでは飽きたらず、供養の実態をしっかり見たい。そこで私が提案したのは、タウンページから、水子供養をしているところを探し出して取材するというものでした。夏までには長崎市内の仏教系寺院130軒あまりのすべてに電話取材を実行し、その実態を把握しました。
 そのあと。水子供養を行っている真言宗の寺院にインタビューをおこない、さらには水子を供養している当事者(全員が高齢者)に直接インタビューして、その言葉を救い出すことに成功しました。
 質的なインタビューのデータの取り扱いや、膨大な先行研究の処理に苦労しましたが、間違いなく、日本ではまだ誰もやっていない水子供養研究が完成しました。
 卒業後は教育作業に身を置き、長崎市内で働きます。