家族としてのペット
ペット供養におけるメッセージを事例に
是松弥歩
近年、ペットを家族同様に供養したいという飼い主の希望から、ペット霊園が急速に普及している。飼い主はペットの遺体を粗末に扱いたくないとの思いから、ペット霊園での火葬・納骨を望み、ペットの死後にまでお金をかけるようになってきたのだ。
このように、現在においては、死後においても、ペットにお金をかけて、人間同様の供養を行なうという新たな展開を見せている。そこで本研究では、ペット霊園という特定の場所に焦点を当て、その場で見られる「ヒトとペットの関係」の解明を試みた。
そこで明らかとなったことは、ヒトとペットの関係は実に多様であるということであった。ヒトとペットの関係は人それぞれによって異なっていたため、飼い主にとってのペットのあり方には飼い主の考えが影響しているということになる。
そうした多様な関係性の中にあって、飼い主の間では、ペットを家族と見なす人が多くいることが確認された。本論文においては、山田の「自分が家族と思う範囲が家族である」という「主観的家族論」の枠組みを採用し、インタビュー調査をもとに、ペットがどのようにして家族と見なされ、語られているのかを検討した。その結果、ペットとの間に「親子関係」を設定したり、あるいは「兄弟関係」を設定するなど、多様な表現を用いながら、飼い主たちはペットを「主観的家族」のなかに位置づけていることが明らかとなった。
さて、本論文の結果としては、以上のことが明らかとなったが、これらのことに共通していることとして、「ペットはヒトに飼われることにより、生き方、あり方が決定づけられている」という点が挙げられる。ペット霊園においては、ペットは家族として位置づけられ、ペットの死後も丁重な供養が行われているが、ペットの死後、ゴミ同様に扱う人もいるということも事実としてある。また、生前のペットとの関係においては、引っ越しなどの理由からペットを保健所に連れていく人もおり、犬と猫の殺処分数は平成18年度には34万頭に及んでいる。このように、ヒトとペットの関係に内包される影の部分にも目を向けておかなくてはならない。われわれは、ペットとの関係において、ペットの一生をにぎる唯一無二の存在として、彼らと付き合っていかなくてはならないのである。

家庭における身体技法における習得
箸づかいの事例から
高山麻衣子
本研究では箸づかい、特に箸の持ち方を事例にして家庭における身体技法の習得と、習得した技能の「正しさ」に焦点を当てて考察することを目的としている。
箸の持ち方・使い方についての研究で、多くの研究者が往々にして箸の持ち方の乱れを指摘している。近年では箸の持ち方を矯正する器具の販売、マナーに関する本が多く出版されていることなどから、私たちが箸の技能について学ぶ機会は多様化していることが分かる。本来箸の技能は身体技法特有の「見様見まね」で身に付けるものであろうが、その習得方法は各人また各家庭によって多様であるようだ。そのような多種にわたる方法で得られた技能については、個人によって認識が異なるのは当然であろう。
第1章では、箸の持ち方に関する基本的な知識を踏まえて本研究に関連する先行研究に見られる傾向を探った。どの調査においても似通っているものが多く、本研究の調査結果にある程度の見通しをつけることができた。
それらを踏まえて第2章で本研究における箸の持ち方の実技調査とアンケート調査から得られた結果をまとめて表示し、先行研究と比較検討した。特に、教えられた人や時期からも箸教育は家族による教育、または家庭における技能の習得が大きな影響力をもつことが確認された。さらに実技結果と自己認識の間に開きが見られたことから個人によって「正しさ」に対してズレがあるものと考えられる。
第3章では第2章で示した実技結果及びアンケート結果をもとに、習得方法や「正しさ」認識に焦点を絞り、家庭における身体技法について以下のように結論付ける。
箸の持ち方の習得には、単一というより複合的な要素が関係し合っていると推測することができる。それは最初に得た知識である「経験の知」と長年の修練による「慣れ」である。そして習得の過程で各人により異なる範囲を持つ「正しさ」の認識が生じるのだろう。このことから見様見まねによる技能の習得、つまり家庭における身体技法の習得には「経験の知」「慣れ」「正しさの認識」という要素が関係していると言える。
本研究は長崎大学の学生について見られた傾向を抽出し考察したため、全ての人に共通して言えることとは言い難い。箸の持ち方習得は各々に様々且つ個人により特有の要素が関係しているため、それぞれが箸を持ち始めてから習得に至るまでの過程について更なる分析が必要である。

原爆の記憶
長崎市における碑データベースの構築と空間の解釈
中村美貴子
1945年8月9日午前11時2分、長崎の街に一発の原子爆弾が投下された。この原爆により多くの人々が犠牲となった。長崎ではこの原爆の体験を後世に残すため、また原爆で犠牲になった人々の存在を記録するための様々な活動が行われてきた。
その取り組みの一つとして、碑(いしぶみ)の建立活動が挙げられる。この碑は長崎の街のいたる所に数多く建立されており、原爆の記憶を忘失することなく継承するための「永続的記憶装置」と捉えることができよう。
近年、歴史学では碑を貴重な非文献資料として、その学問的な意義が理解されるようになってきた。記念碑は過去の出来事の記録装置でありながら、同時に政治的・文化的「伝達装置」でもあり(王2006:245)、記念碑そのものの分析を通じて、ある特定の歴史事象に対する人々の意識の変化、記憶の形成過程を広く読み説くことが可能となる(和田2005:115)。
戦後60年以上が経過した今、戦争体験者の減少により人々の原爆の記憶は希薄化していると考えられる。それに伴って碑と人々の関わり方、さらには碑の持つ機能がどのように変化しているか、さらに記憶の継承方法がどう変わっているか、先行研究を踏まえ、長崎に存在する碑を考察することで明らかにすることを本研究の目的とする。
第一章では調査した199基の碑を年代別、建立場所別、名称別にそれぞれ考察し建立状況の報告を行う。第二章では年代別に碑を詳細に検討し、碑の内容を詳しく見ていく。その考察を元に、第三章では全体の碑をその機能別に分類し、検証していくことで碑と人との関係性、さらには原爆記憶の継承方法の変遷を明らかにしていく。
戦後直後、身近な人々の死に直面した生者は、死者の記憶をその場に残すために碑を建立した。年月が経過し、具体的な死者との記憶が薄れていくにつれて、人々は、死者を「平和祈念」のシンボルと捉え、長崎だけではなく世界の「核廃絶」という問題に焦点を合わせていくことで原爆の記憶を継承し、一方では土地の記憶保存資料として、土地に関する原爆の記憶を継承した。このように人々の原爆の記憶の希薄化に伴って、原爆の記憶の継承方法が変化していったということを本研究の結びとする。
碑への意味付けは今後も様々な形で行われるであろうし、そのたびに新たな碑が誕生することもあるだろう。碑がどのような意図で建立され、どのような機能を持つかを見守ることで、原爆に対する人々の意識の変化を知りえることができる。また原爆がどのように解釈、記録、また構築されるかを考える上で碑は貴重な資料となりうるであろう。

開発による地域コミュニティの変遷
浦上水源地開発の事例から
堀温子
ダム開発と、その開発の犠牲となる地域住民についての研究は数多い。そうした報告の大半は、ダム開発はサイトとなる地域に多大な被害をもたらしその上補償も十分ではないために、住民に深刻な被害をもたらしていると結論付けている。
長崎市には現在、15ものダムがあるもかかわらず、市内のダム開発と地域住民について論じた研究は皆無に等しい。そこで、本研究では、長崎市における浦上水源地開発が、そのダムサイトとなった下道ノ尾地域(現長崎市昭和町3丁目)にどのような影響を及ぼしたのか、またその影響により下道ノ尾地域はどのように変化したのかということに焦点を当てて調査をしている。
調査の開始にあたり著者は当初、強制的な工事によって地域が被った被害や犠牲は大きく、コミュニティは分解・消滅してしまったのではないかという予想をしていた。しかし調査を進めるうちに、地域住民が受けた開発による被害は予想より大きくなく、地域コミュニティも破壊されずに現在まで続いているということが分かった。そこで、本研究では、開発の影響の中で「なぜコミュニティは維持できたのか」ということを問題提起にして調査を進めている。
研究結果として、著者は「つながり」が地域コミュニティ維持の要因であるとし、またつながりには「人」とのつながりと「土地」とのつながりの二つがあるとした。下道ノ尾の場合では、統合のシンボルとしての小角神社の存在、生活拠点内での移転、広い生活圏、支給されなかった補償金、長崎市に近いという地理的要因、原爆の投下などが、様々な形で地域のつながりを維持する働きをし、「人」と「土地」の両方のつながりが保たれたことがコミュニティ維持の要因であると結論付けている。
また、開発当時下道ノ尾の地域コミュニティの消滅を脅かす存在であった浦上水源地は、時代により水源地の意味づけが変化したため、現在は地域の自然環境と下道ノ尾の地域コミュニティを維持する役割を担っている。

トイレ用擬音装置と恥じらいの感覚
森本千鶴
本論文のタイトルにある恥じらいとは、広辞苑によれば「恥じらうこと」ということであり、「恥じらう」とは「相手の対応や、まわりの様子などによって、はずかしそうな素振りをする。はにかむ」という意味である。
そもそも排泄は万人に共通するものであり、誰もが行なうものであるが、現在の日本においてそれは人には見られるべきでない「恥ずかしい行為」とされており、特に女性の方が男性よりも、排泄に対して恥ずかしさを強く抱く傾向がある。これは男性がいわゆる「立ちション」をするのに対して、女性はしない(できない)ということから明らかである。
日本人女性は自分の排泄音を隠すために水の二度流しを行なっている。トイレ用擬音装置は水の二度流しを防止するために作られた。つまり、節水するために作られたのである。本論文ではインタビュー調査を通して、トイレ用擬音装置と排泄音に対する恥じらいの感覚の関係性を考察することを目的とした。
まず、第1章では擬音装置の基本的な情報について述べた。第3節では長崎市主要商業施設や長崎大学文教キャンパスにおける設置率を調査したが、その結果新しい建物ほど設置率が高いことから、トイレ用擬音装置の必要性は年々高まっていることが伺える。
続く第2章ではトイレ空間の歴史を辿った。トイレは水洗化されたことによって清潔になり、長時間いられる空間になった。この水洗化によってトイレが「快適な個室」となり、人々のトイレに対する感覚が変化したと考えられる。そして第3章では環境科学部の学生を対象としたトイレ用擬音装置に関するインタビューをもとに、排泄音に対する恥じらいの感覚について分析を行なった。
これらの検討を通して、排泄音に対する恥じらいの感覚は近代化以前からあったものの、それ以降トイレが水洗化し完全な個室になったことにより、さらに強まったということが分かった。音消しは、近代以前から日本人女性にある「排泄音に対する恥じらいの感覚」に、「排泄後に個室から出たときに想定された他者の視線や存在」と「トイレの個室性」が合わさることにより、強化され、習慣化していくものと考えられる。さらにその恥じらいの感覚は周囲にいる人、環境などによって変化が生じる。そしてトイレ用擬音装置があることによって、排泄音に対して意識せざるを得なくなり、日本人女性の排泄音に対する恥じらいの感覚はさらに強化されているのではないかと考えられる。

口上術が形成する相互作用
テキヤとTVショッピングの比較を通して
山部喜彦
本論文ではテキヤの口上が持つ力によって形成される空間を明らかにすることを最終的な目的とし、そのための手段として対照的なテキヤとテレビショッピングが扱う口上を比較するものである。
第一章において口上という販売手法からテキヤとテレビショッピングの類似性を指摘し両者を関係づけた。続く第二章では口上や演出の中に含まれる表現からテレビショッピングが「騙し」の性質を持つことを指摘し、テキヤの持つ「騙しの概念」と比較することで両者の違いを明らかにした。そして第三章では両者の持つ異なる騙しを明らかにしようとするという目的のもと、テキヤの非日常性とテレビショッピングの提供する生活に触れた。その結果テレビショッピングに求められているものが、「連続する日常からの脱却」と、その延長線上に位置する「理想的な別の日常への到達」であり、テキヤに求められているのが非日常体験による日常からの完全な乖離であることを明らかにすることができた。それによってテキヤを「非日常を演出するエンターティナー」、テレビショッピングを「別の日常を提案するプランナー」であると位置付けた。また、テキヤが非日常を演出する手法として、口上によって自身に「神秘性」と「いかがわしさ」を付加し非日常性を高めていること、そのためには客がテキヤの騙しに騙された「ふり」をするという暗黙の了解が必要であることに触れた。
この「ふり」をすることで得られるのが「トリックの存在する手品を見ているような楽しさ」というフィクションを楽しむ行為にあたるのならば、そのフィクションを作り上げたのは「非日常」を演じたテキヤ=売り手と「騙された客」を演じた観客=買い手である。つまり口上によって形成される空間は暗黙の了解のもと周りの観客を巻き込み、巨大な非日常劇を演じる劇場へと変化するのだ。そしてこの巨大な劇場を形成させることこそがテキヤのエンターティナーたる最大の所以である。すなわち「神秘性」と「いかがわしさ」という両義性をもったテキヤというエンターティナーは、非日常劇の「演出者」であり「出演者」でもあったのだ。

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